手作りオルゴール ー ディジタル時代に際だつ職人技、欧州ICT社会読み説き術 (20)

スイスはオルゴール発祥の地である。オルゴールの元祖は、14世紀から始まったという、カリヨン(時計塔に組み込まれた鐘)だった。その後、19世紀末に音の部分が時計から独立し、現在のようなオルゴールが誕生した。スイス製のオルゴールは、今もすべて手り。その心に響く音色は、世界中の人に愛され続けている。

ディジタル機器、ディジタル音楽全盛の時代に、伝統技術の粋、オルゴールは、どういうありかたを見せているのか?筆者は、世界最古のオルゴールメーカー、リュージュ社(スイス)の社長、クッパーさんにお話しを伺った。

世界最古のオルゴールメーカー

現在、オルゴールを生産する会社は、世界に三社だけ。中でも、スイスのリュージュ社は、150年という最古の伝統を持ち、スイスのみならず、欧州唯一のオルゴールメーカーでもある(他の2社は日本と中国)。オルゴール技術の発祥したジュラ山中にある、本社を兼ねた製造工場では、熟練の職人たちが、小さくて精密な個々の部品製造から、オルゴール組み立ててまでを行なっている。音の調整も、人の耳で行なう。

このディジタル音楽全盛時代に、なぜ今も機械式音楽なのか?多くの産業の製造ラインがコンピュータ制御で行なわれる時代に、なぜ、人手による生産なのか?リュージュ社にとりイノベーションとは何なのか?リュージュ社の社長、クッパ-さんにお話しを伺った。

伝統と新しい技術の架け橋

栗崎:リュージュ社のオルゴール製作に、ICTは使われていますか?

ク氏:リュージュ社は、伝統技術と新技術の架け橋でありたいと思っています。例えば、お客様に、ご注文されたオルゴールの音を確かめて頂くためにMP3を、オルゴール箱のデザインには、3Dデザインシステムを使っています。また、人の耳には聞き分けられない微細な音の調律にも、ICTシステムを使っています。

けれども、オルゴールの心臓とも言えるムーブメント制作工程に、ICTは一切使っていません。

オルゴールの生み出すのは、芸術と感情の接点です。お客様に喜んで頂ける最良のオルゴールを作るために、私たちは、伝統技術と新技術との最適なバランスを、常に見つけて行かなければなりません。

伝統にこだわる理由

栗崎:製造業にもICT導入が進む時代に、なぜリュージュ社は、伝統的な生産工程を続ける道を選んだのでしょう?

ク氏:食事に例えてみましょう。

宇宙船内での食事のために開発された宇宙食でも、必要な栄養は摂取できます。けれども、宇宙船内では仕方がないとはいえ、そのような食事で心の楽しさは満たされるでしょうか?

反対に、私たちが家族や友人たちと楽しく食事をする場面はどうでしょう?そこには、美味しい味付け、美しい盛りつけ、心の籠もったサービス、そして楽しい会話があります。栄養価だけではなく、その他の要素が揃って初めて、喜びが生まれます。それは、感情の伴った食事なのです。

音楽を聴く喜びも、同じです。音にも質と感情が伴わなければいけません。そのような音は、熟練の職人の手を経た工程を通して初めて、生み出すことが出来るのです。コンピュータの作る音楽には、30秒間で人の心を打つことは出来ません。

写真1 ある英国の貴人の婚礼に贈られた、つがいの歌う小鳥。オルゴール技術の粋!
写真1 ある英国の貴人の婚礼に贈られた、つがいの歌う小鳥。オルゴール技術の粋!

イノベーションはお客様の声から

栗崎:生産過程へのICT導入を考えたことはありますか?

ク氏:以前に試したことがあります。けれども、結果は散々でした。お客様からも不評を買いました。その経験から、オルゴールの音楽は、コンピュータの手に負えないことがよくわかりました。技術は目的達成の手段であっても、技術自体が目的であってはならないのです。

栗崎:リュージュ社にとってイノベーションとは何ですか?

ク氏:お客様の声をよく聞くこと、目と耳を大きく開けて、世の中を見ることに尽きます。イノベーションは、そこから自ずと生まれます。

現代は、技術発達が急速に進む反面、製品やサービスを提供する側の人々が、お客様の声を、充分に聴かなくなっていますね。技術が先走り、技術愛好者はともかく、そうでない大勢の人々のニーズを忘れていると思います。

リュージュ社は150年前に設立された古い会社です。けれども、私たちは伝統に縛られてはいません。これからも、常に新しい時代の要素を取り入れながら、伝統技術に培われたオルゴールに、新しい生命を吹き込み続けて行きたいと思います。

筆者:ありがとうございました。

写真2 iREUGE iPhone充電器を組み込んだ。電話が着信すると、オルゴール音楽が始まる、この優雅さ!

インタビューを終えて、リュージュ社は、人の心に響く音を提供するという使命を、見事に捉えてブレがないと思った。生産工程は伝統技術に支えられているが、ICTを排除してはいない。そこで問われるのは、手作業か、機械化かという二者択一ではない。リュージュ社の使命にとり、最善の技術を選ぶということだ。そう考えると、同社が決して守りの姿勢にないことにも合点がいく。

クッパ-さんは、イノベーションはお客様の声の中にある、という。ここに技術を生かすための、発想の基本があると思った。

伝統技術の生み出す音色を、リュージュ社のサイトから聴くことが出来ます。画面を右にスクロールして曲目リストに行ってください。

掲載稿はこちら→ 2013 欧州ICT社会 読み解き術 第二十回、NTTユニオン機関誌「あけぼの」2013年 10月号に掲載

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ソーシャルメディア時代のラジオ、これがスイスインフォの選んだ道 ー 欧州ICT社会読み説き術 (19)

スイスインフォはスイス公共放送協会(SRG)の国際サービスの名称だ。スイスインフォは、外国在住スイス人向けのラジオ放送として始まった。それが、今日では、ラジオを離れ、ウェブ上のメディア プラットフォームに進化を遂げた。しかも世界に向けた情報提供というサービスの核心を変えないまま。これはメディアとして180度の方向転換だ。ラジオというマスメディアであり、プッシュメディア(利用者が自ら行動を起こさなくても、情報を与えられるメディア)という存在から、ウェブサイトという、個人がアクセスする、プルメディア(利用者が自ら行動を起こして、情報を取りに行くメディア。)への変化だからだ。現在のスイスインフォは、マスメディアと個人メディアの中間ともいうべきソシアルメディアの利用にも、積極的に取り組んでいる。

情報化時代に、ラジオはどう変化していくのか?そのひとつのあり方が、スイスインフォに見られるのではないか。スイスインフォの、企画担当、クリストフ・ブルッタン氏に、詳しいお話しを伺った。

スイスインフォの歴史

スイスインフォは、国際短波放送として始まった。1935年8月1日、スイス建国記念の日に、当時の大統領の声をアメリカに放送したのが正式な開始とされている。

国際的には、1920年代から、短波ラジオ放送局が多くの国に誕生した。また時期を同じくして、国際政治の舞台ではジュネーブに国際連盟が設置された(1919年)。そこで、世界平和の中心地として広く世界に、また国外に住むスイス人に向けて情報を発信するためのラジオ局ができたのである。当時は、ラジオノスタルジアというニックネームで呼ばれた。

スイス発の国際ラジオ放送は、第二次大戦中と、それに続く冷戦期には、 世界中のリスナーから信頼を得た。中立国スイスのラジオは、どの陣営にも属さない、唯一の公正な情報源だったのである。こうして、スイスの国際ラジオ放送は、在外スイス人には国内情報提供を行なう、また国際的にはスイスの中立を支えるメディアとして、不動の地位を築いた。

ラジオからの転身

1990年代に入りインターネットが誕生するなど、情報通信技術革命が起きた。これはスイスインフォにとっては危機だった。インターネット、衛星放送の登場により、国際的情報提供は、短波放送の独壇場ではなくなったのだ。

そこに政府から、厳しい予算カットの要求が来た。生き残るために、スイスインフォは、少ない予算で今まで通り質の高い情報を世界に発信するメディアに、変わらなければならなかった。それも短期間で。

1999年、スイスインフォは、ラジオ放送を止め、ウェブサイトをプラットフォームとして、多様なメディアを包含する情報サイトとして再生した。ウェブサイトに変えたのは、経費が安いからだったとブルッタン氏は語る。

ラジオからウェブへという、技術も視聴者とのコミュニケーションの在り方も全く違うビジネスへの転換だ。これは大規模なリストラだったろう。しかし、レイオフは無かったという。ラジオのスタッフが一丸となり、ウェブの仕事をしながら必要な知識を学び、経験を積んでいったというから、驚く。

スイスインフォは、ウェブサイトになっても社風は変わっていない、とブルッタン氏は胸を張る。今でも、ラジオ時代と同じように、スイス発のニュースの公正な視点と、情報、技術の質の良さを誇っている。

マルチメディア戦略

現代のコミュニケーションの潮流を睨んだ、スイスインフォの目標は二つある。モバイル機器に対応することと、事件、時流の変化に敏捷に対応することだ。

モバイル機器については、それ向けのコンテンツを提供するかどうか、現在試行中という。

敏捷であるために、ソシアルメディア、特にフェースブックを活用している。

スイスインフォは、フェースブックの、読者と直接対話ができる点を高く買っている。フェースブックには10カ国語でスイスインフォのファンページがあり(中国語は、中国専用の別のプラットフォームを使用している)、そこに情報を載せると共に、書き込みをするファンから情報を得ている。書き込みを直接報道することはないが、アラブの春など、時々刻々変化する状況を、現場の生の声から入手できることは大きい。こうして、スイスインフォは、ソシアルメディアの双方向性を、そのエンジンにしている。

スイスインフォは、ウェブやソシアルメディアを活用しているが、コミュニティーマネジャーは置いていないというところが興味深い。各国語担当の記者たちが自身でそれぞれの言語のサイトを管理、活用している。「 我々は、読者と(直接)対話をしない。」と語るブルッタン氏の言葉に、報道機関にとってのファンページは、消費財製造、販売企業のそれとは役割が異なることを覗わせられた。

多言語はスイスの強み

スイスインフォには、十の言語についてそれぞれ、各言語のページを担当する、合計60人にのぼる記者がいる。その記者全員に共通の言語がないことが、日々の仕事を廻していく上での悩みと、ブルッタン氏は苦笑いする。

しかし、十カ国語のそれぞれで取材・編集する人材を国内で見つけられるところが、スイスの凄さだ。国際性の高いスイスの社会資源の豊かさを、垣間見る思いがする。

ちなみに、2012年現在、スイスに住む外国人は、総人口の23%。国際結婚によるスイス国籍取得など、スイス国籍を持つ外国人を勘定に入れると、この割合はもっと増えるだろう。

世界に向けて情報発信を

スイスインフォでは、現在いろいろなメディアの使い方を試行中という。ソシアルメディアの発展など、急激なメディアの変貌により、コミュニケーションの習慣は変化しつつある。その中で、ラジオからウェブへと飛び移ったスイスインフォは、更にどのように変化するのか、将来を見まもりたい。

ここで忘れてならないのは、ラジオからウェブへとメディアは変わっても、スイスインフォの一貫した情報戦略の基本は変わっていないことだ。それは、情報を発信することにより、外国からの理解を得るということである。スイス発の国際ニュースは公正中立という評価と信頼は、今も変わっていない。それはまた期せずして、欧州の中央に位置し、大国(軍事的には強国)に囲まれたスイスの、軍事力を使わない、ソフトディフェンスになってきたのではないだろうか。

現代の日本にとり、スイスのような情報発信に積極的な姿勢は、ますます必要になっていると思える。情報化社会のディフェンスは、積極的に情報を出して行くことにある。日本にとって、隣国との距離が縮まるに従い、国際世論を味方につけたい場面は増えている。日本人もどんどん情報を発信して、外国との相互理解を深め、世界とより良く繋がって行って欲しい。

掲載稿はこちら→ 2013 欧州ICT社会 読み解き術 第十九回、NTTユニオン機関誌「あけぼの」2013年 9 月号

ジュネーブと国際会議と(6)人見知りだった私が、国際会議で実行していること

私は、人見知りの子供でした。外に出て友達と遊ぶよりも、家で好きな絵を描いたり、本を読んだりしている方が好きな子どもでした。

幼稚園の頃は、「月曜病」だったそうです。月曜日の朝になると腹痛を訴えたと、母から聞きました。家で気ままに過ごした週末の後、幼稚園に行くのがいやだったのでしょう。

母も、欠席の連絡を受けた幼稚園の先生も、私の幼い病気に気付いていました。けれども、先生は無理強いせず、「ああ、よしこちゃん、またね。元気になったらいらっしゃい。」と言ってくださったそうです。

こういう人見知りの私ですが、おとなになると、そういう理解ある先生ばかりに囲まれて過ごすわけにはいきません。

ITUの会議に出席するようになって間もなく、気づいたことがあります。国際会議で必要なのは、発言の善し悪し(内容の正しさ、建設的な意見か、など)もさることながら、人としての信頼が同じくらい重要なのです。そのためには、日頃から、会議場の中と外で多様な人々と知り合い、信頼関係を築いておかなければなりません。

反面、会議に初めて参加した人の発言力は、どうしてもその実力以下になってしまわざるを得ません。これは、仕方ありませんね。それもまた、国際会議という意志決定過程のルールのうちなのです。だからこそ、ある人を何年間にも亘り同じ会議に出席させることは、それだけで大きな発言力を得るために大変役立ちます。

人見知りの人間が、国際会議で他の人と知り会って行くにはどうすればよいか?これは私にとって大きな課題でした。

ジュネーブ旧市街。石の壁に残るホタテ貝の印が、巡礼宿だった歴史を語る。
ジュネーブ旧市街。石の壁に残るホタテ貝の印が、巡礼宿だった歴史を語る。

いろいろな経験を繰り返した今、私は、どんな会議でも、セミナーなどでも、毎回自分に二つの宿題を出しています。

一つ目は、必ず、何か一言、発言すること。意見でも質問でもいいからとにかく、一回は声を出す。

二つ目は、毎回、知らない人最低3人と話しをする。

一つ目の宿題は、NTT時代の上司だった、Kさんを見習ったものです。この点については、6月号のこのコラムでお話ししましたね。

二つ目は、自分で作り出した宿題です。

どんな会合でも、毎回知らない人3人と話すこと。または、既に知っている人と、新しい話題で話すこと。

なぜそんなことをするかというと、人に話しかけることを楽しくしたいからです。逆に言うと、宿題を出しておかないと、人と知り合うことに一歩を踏み出せない人見知りの私が、まだ心のどこかにいるのです。

そういう自分をどうにかしようと思い、一人でこのようなゲームをすることを思いつきました。ゲームと思えば、軽い気持ちで実行に踏み切れます。それがこの二つの宿題なのです。

ゲームですから、一つ出来る毎に、自分にご褒美も出しています。一日の会議を終えた後、夕食前のビールなどは、励みになります。こうやって、自分に人参を与えるわけですね。

人と知り合うことに億劫さを感じる人は、どうも私だけではないようです。大人になると、人付き合いの面でも自分の領域がしっかりできてきます。その反面、 多くの人は、新しい人と知り合うことを面倒に思うようになるのではなでしょうか。

人に話しかけることを億劫に思わないコツは、相手への関心です。目の前にいる人に対し、どんなひとだろう?と興味を持つことです。人は誰でも、情報の宝庫です。相手の知っていることに興味を持ち、聴くことを楽しんで下さい。そうして、その人と知り合ったことを喜び、たとえ5分でも、一緒にいる時間を楽しみましょう。まして国際会議の場では、広く世界から、思いもかけなかった話題が集まって来るのですから。

最後に、私に一つ目のヒントを下さり、今も尊敬する先輩のKさんの詩を、ここにご紹介したいと思います。これは、「歳を取ったら」というシリーズの一作です。けれども、ここに込められたメッセージは、年齢に関係なく、誰にでも受け止めて頂けることと思います。

歳を取ったら

孤高を目指してはいけない

ネットワーカーになろう

様々な人との出会いが

人生を豊かにしてくれる

歳を取ったら

もらっているばかりではいけない

情報を発信しよう

ささやかな贈り物を

喜んでくれる人がきっといる

(上記の詩の引用に当たっては、作者、K様のご承諾を頂きました。)

この連載は、今回が最終回となります。皆さま、六ヶ月間ご愛読をありがとうございました。

国際会議でのコミュニケーションについて、講演や研修を致します。まず、メールでご相談下さい。

Yoshiko.Kurisaki@gmail.com

掲載: ITU ジャーナル Vol. 43, No. 9, 2013年9月号

「ネット投票」浸透への道のり ー 欧州ICT社会読み説き術 (18)

今年から日本でも、ネットを使った選挙運動が始まった。これは、国外で投票する私には凄い朗報だ。政党や候補者の意見や政見をネットで検索できる。そのうえ驚くほど多様なサイトがある。複数のサイトから得た情報をもとに、誰に投票するかを多面的に考えられる。これはありがたい。

ところで、こちらジュネーブでは、インターネットを使った投票が行なわれている。今回は、ジュネーブで行なわれているインターネット投票 (e-Voting)について、その誕生以来、今日まで12年間、普及と改善に取り組んできたミシェル・シュバリエさんに取材した。

ネット投票のデモを体験

ジュネーブ州のウェブサイトに、e-Votingのデモンストレーションシステムが載っている 。このデモシステムには、スイスの四つの国語の他に、英語版まである。(さすがはスイス!)

デモシステムによると、ネット投票は概略このように進む:

(1) e-Voting のサイトに行き、まず投票用紙番号、投票者ID(氏名、生年月日)を入力する。

(2) すると画面が変わって、投票事項が表示される。このデモシステムは、レファレンダム(国民投票、住民投票)の例なので、投票者はある事項について、イエス、ノーを選ぶ。(これが議員の選挙なら、マウスで名前を書くそうだ。)

実際にやってみると、驚くほど簡単だった。これなら初めてネットを使って投票する人でも、またフランス語が多少苦手な人でも、とまどったり、間違ったりしないだろう。ジュネーブの住民にはフランス語が母語ではない人が多いので、この点は重要だ。

2001年にプロジェクト発足

インターネット投票は、2001年に、ジュネーブ州のプロジェクトとして発足した。その背景には、郵便投票制度の大成功がある。郵便投票は1995年に導入され、投票率を大きく押し上げた。今では 投票の95%は郵便で行われている。

郵便投票は、投票手段が便利なら、投票率は上がることを人々に教えた。

「では、次は自宅に投票所を持ってこよう!」

折しも、時代背景が動いた。コンピュータの西暦2000年問題が起きたのである。(註:2000年問題(にせんねんもんだい)は、グレゴリオ暦2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた年問題。Y2K問題(ワイツーケイもんだい:”Y”は年(year)、”K”はキロ(kilo))、ミレニアム・バグ(millennium bug)とも呼ばれた。出典:ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/2000年問題 )

結果としては、大きな混乱は起きなかった。しかし、2000年問題は、世界中の人々に、コンピュータに頼る社会の危うさに気付かせると同時に、自分たちはディジタル時代に入っているという認識に目覚めさせた。

最初は小さくスタート

このような時代の後押しを得て、e-Votingシステムの構築は進んだ。しかしその普及は順風満帆ではなかった。政治的には保守、リベラル政党それぞれの思惑が絡んだ。どちらも、ネット投票は相手陣営の投票者に有利になると考えたのだ。また、一部の有権者の間に、選挙は神聖という意識があり、それがネット利用への抵抗になった。

最初のe-Votingは、2009年、一つの選挙区で、試験として実施された。ネット投票に対する反対の声を和らげるために、小さく始めたのだ。

e-Votingの普及が進むにつれ、反対する声は小さくなった。それでもe-Voting 普及の歩みは今でも慎重である。現在、e-Votingは、ジュネーブ州に45ある選挙区のうち、30の区で可能となっている。

インターネットで投票できる選挙区の有権者に配布される葉書

有権者に様々な配慮が

ジュネーブの有権者を対象にした最近の調査によると、70%の市民がネット投票を支持している。とはいえ、実際にネットで投票する人は、投票者全体のほぼ20%。シュバリエ氏は、これをもっと増やしたいと考え、随時プロモーション活動を行なっている。

一方、スイス国外に在住する(ジュネーブ州の)有権者に対しては、ネット投票は2009年から、全員に可能になっている。今では、在外有権者の50%がネットで投票しており、以前に比べて投票率は20%増加したそうだ。

ジュネーブ州の e-Votingには、ネット利用に不便のある人々にも配慮が払われている。現在のシステムは、アクセシビリティー、ユーザビリティーに優れており、目や四肢の不自由な人にも、介助無しで投票できるそうだ。また、ネットを使い慣れない高齢者のためには、高齢者のセンターなどで講習会を開いている。

政治的利害ふまえ慎重に運用

スイス全体を見ると、現在25州あるうち、15の州がインターネット投票を採用している。また、現在稼働しているシステムは3種類ある。スイス全体の統一は無い。選挙制度は州が管轄するからだ 。

スイスのネット投票には、2005年以来、連邦政府による上限規制ができた。ネット投票ができるのは、有権者の30%までである。ただし、スイス国外在住の有権者にはその規制は当てはまらない。技術的には100%が可能でも、実施にあたってこのような規制ができたところに、多様な政治的利害などに配慮しながら、ネット投票が、とても慎重に進められていることを窺わせる。

インターネットを使った投票は、多くの人に便利なことが実証された。その反面、選挙結果は政治の行方を左右するだけに、実施には、充分な議論とコンセンサス作りが必要だ。小さく始めて、徐々に大きく育てるというジュネーブの知恵は、日本にも参考になるだろう。

日本でもネット投票の導入を

日本国外に住む筆者は、投票もネットでできたら素晴らしいと思う。国政選挙の際、多くの在外公館に投票所が設けられるが、遠くてそこまで行けない人は多い。郵送投票の制度もあるが、手続きが煩雑な上、投票用紙を取り寄せるなど、日数が数ヶ月かかる。在外邦人の投票率は20%強と非常に低い、との推定があるが、それは極端に投票しにくいことが大きな原因ではないだろうか。

日本国外に住む有権者は、現在約88万人。その人々のために、スイスのようなネット投票を日本でも可能にして欲しいと、今回の参院選挙で在外公館まで投票に出かけた筆者は、つくづく思ったのだった。

掲載: NTTユニオン機関誌「あけぼの」2013年 7 & 8 月号

掲載稿はこちら→ 2013_あけぼの_ICT_第十八回

電話は過去のメディアと思うなかれ ー 欧州ICT社会読み説き術 (17)

最近の新聞報道によると、パソコンの売り上げが低下する一方で、スマホやタブレットの急成長が著しいという。遂にパソコンがメディアの王座を他に譲る日が来たか。一方で、メディアを取り上げるニュースに、電話はパタリと登場しなくなった。通話する機能しか持たない電話は、過去のメディアになってしまったのだろうか? ところがどうして、私たちは、電話さえもまだ充分に使いこなしていないかもしれない。欧州に暮らしていると、そんなことを、ふと考えることがある。

想定される国際ビジネス像

欧州では、多種の言語、多数の国が隣り合って存在し、人がそのような文化や政治の境目を超えて頻繁に往来するのが日常だ。そういう土地に暮らすと、電話というメディア(=技術)と、それをツールとして使うビジネス(=社会)との間には、まだギャップがあることに、時折気づかされる。そのギャップは、複雑な欧州社会のあり方と、密接に関わっている。

先週、こんなことがあった。

私はコンサルタントとして活動する一方、K社としようで勤務している。K社は外国出張が多く、社員は出張の際にF航空会社をよく利用する。そこで、K社は、F社の企業向けポイントカード、「蒼天ビジネスクラブ」の会員になった。これは、個人向けのマイレージバンクとは別物で、K社全体として、F社を利用する度にポイントがたまる仕組みだ。

私は、(削除あり)フライトデータの入力方法がよく分からなかったので、F社の蒼天ビジネスクラブの担当者に電話で尋ねようと思った。メールよりも、電話の方が速くて正確だと思ったのだ。

ところが、F社のスイス向けウェブサイトには、蒼天ビジネスクラブの入会案内はあっても、問い合わせ電話番号は載っていない。メールアドレスもない。仕方なく、F社の一般的な受付番号に電話してみた。

さすがは、国際航空大手のF社、スイス向け顧客の受付番号でも、独・仏・伊・英語の四ヵ国語から選択できる。多くの企業では、スイス国内向けの電話受付では、大抵は独・仏語はあっても、英・伊語の対応をしない。だから私は、F社の国際センスに感心した。スイスの顧客からの電話だからといって、独・仏語を話す人だけがかけてくるとは限らないのが、国際ビジネスの現実だ。F社は、そこが分かっていると思ったのである。

電話を取ってくれた担当の女性は、滑らかな英語を話す。これも大陸ヨーロッパでは、そうあることではない。

だが、感心したのも、そこまで。多様な言語を持つ人々が国を超えてビジネスを動かす欧州社会と、F社の想定する国際ビジネス像との狭間に自分が落ち込んだことを知るのに、大して時間はかからなかった。それはまるで、アルプスの氷河に口を開けるクレバスのように、底がなかった。

写真 スイスの公衆電話内の緊急電話番号表示。警察、消防などの番号の説明を、独・仏・伊・英語の四通の言語で表示している。
欧州ICT社会 第十七回 写真

言語の壁

電話受付担当の女性は、スイスには、蒼天ビジネスクラブの問い合わせ(削除あり)電話番号がないと言う。では、と、私は、英語圏かフランス語圏の国で、問い合わせ番号を設けている国はないか尋ねた。そこで言語の壁にぶつかった。彼女が手元のコンピュータで見られるのは、ドイツとオーストリアの番号だけだと言うのだ。私は、ここに、“スイス=ドイツ語”、という、F社データベース設計者の思い込みを感じて、内心ムッとする。しかし、彼女に怒っても仕方ない。

彼女は、私はドイツに国際電話をするほかないけれど、そこでは英語での問い合わせに対応する、と教えてくれた。だが、私は、そうはうまくはいかないだろうと、疑う。

実は、以前、決済サイト、ペイパルを利用した際、ドイツの問い合わせ番号にやむなく国際電話をかけたことがある。ところが、顧客受付電話からは、英語で「こちら(のコンピュータ)では、スイスのお客様の情報は見られません」との回答が…。こんな苦い経験があるのだ。

でも、今回はちょっと違った。私が困っていると、その女性は親切にも、F社本社が所在するフランス用のウェブサイトを見てくれた。そして、フランス国内用の蒼天ビジネスクラブ受付電話番号を探し出したではないか。フランス語なら、私も少々ややこしいことを問い合わせられる。

できる限りのことをしてくれた彼女に、お礼を言って電話を切ろうとして、ふと聞いてみた。「ドイツ語国の電話番号しか見られないということは、あなたは、ドイツにいらっしゃるのですか?」。

「いいえ、チェコです」。

これは、コールセンターの国際アウトソーシングだった。人件費の低いインドなどの外国に、コールセンターを設置する先進国企業のあることを、私も知識として知ってはいた。でもまあ、自分が今、そのお世話になっていたとは。

顧客と企業を繋ぐ重要ツール

電話は、過去のメディアと思うなかれ。コールセンターは顧客と会社を直接繋ぐ重要なビジネスツールだ。

欧州では、多様な言語と国家をまたがる人の移動はビジネスの一部になっている。そういう社会でコールセンターを充分に使いこなすには、そこでのビジネスの現実をよく知っていなければならない。スイスからの電話は、すべて「ドイツ語人」からだ、などという単純な仮定はナンセンスだ。

人と、社会と、技術との間には常にギャップがある。そこを補い、技術を改善し育てていくのが人だと思う。幸い私の場合は、チェコのコールセンターの人が、英・仏・独語の狭間に開いたクレバスに落ちかかった私を救ってくれた。これは、ひとえに彼女の気働きのおかげだ。

このような経験を沢山積んで、欧州のコールセンターはその社会により適したシステムに育っていくだろう。現在、アジアでもビジネスの国際展開が進んでいる。アジアにもまた、多くの言語と国家がある。こういう欧州の経験は、アジアのコールセンターにもきっと役立つに違いない。

掲載: NTTユニオン機関誌「あけぼの」2013年6月号

掲載稿はこちら→ 2013_あけぼの_ICT_第十七回

ジュネーブと国際会議と(5)街の人の目線で見る国際都市 ジュネーブ

ジュネーブは、なぜ国際都市なのでしょうか?

ここには、国連欧州本部や、ITU等の、国際機関が多数あるうえ、それらの加盟国の代表部も多数あります。また、ジュネーブでは、大小の国際展示会や、コンファランスが、1年中開かれています。1月の国際高級時計見本市や3月の国際モーターショウは、日本でもよく知られていますね。

観光客も世界中から訪れます。夏と冬のバカンスシーズンには、高原での避暑、アルプスでのウィンタースポーツが大勢の人を引き付けます。

ところが、そういった華やかな人の往来は、国際都市ジュネーブを形作る重要な一面ではありますが、その国際性を語るには、まだ半分ほどにしか過ぎません。

ジュネーブに住み初めて間もなく気がついたのですが、この地の国連と街の人々との間には、どうも溝があるのです。お互いに関心を持っていないというか。

そこで、今月は国際会議を離れ、この街に住む人々に視点を当てようと思います。そうやって、街の人の目線から、国際都市ジュネーブの奥行きに、一歩踏み込んでみましょう。

読者の皆さまも良くご存知のように、スイスは、欧州の真ん中に位置し、欧州内の人の往来する地域でした。また外交では、どの強国の支配も受けない、スイスなりの“中立”を政策として来ました。第二次大戦後だけでも、何十万人もの外国人を受け入れ、社会に同化させてきました。そのためのルール、具体的ノウハウも、教育、社会政策など、随所に蓄積されています。

そもそも、スイスは国の起源からして、規模こそ小さくても最初から多民族国家でした。スイス民族も、スイス語もありません。「ヘルベチア連邦」(スイスの正式名称)の名の下に、多数の州(カントン)が、異なる言語や文化を互いに容認し合い、一つの連邦として、近代、現代の欧州を生き抜いて来ました。

その流れは今も続いています。ジュネーブにも、いろいろな理由で外国から移り住んだ人々の二世、三世がスイス国籍を取得し、スイス人として根付いています。彼、彼女たちの国籍はスイスですが、従って「スイス人」と呼ばれる人々ですが、その祖先の出身地がスイスではないのです。その意味で、 彼、彼女らもまたジュネーブという土地の国際性を形成しているのです。

そういう人々は、ジュネーブには大勢います。おそらく、何十万人の単位と言ってもいいのではないでしょうか。私の友人や知人が、たまたまそういう人々の一人だったと知るとき、私はこの街の奥行きの深さに打たれるのです。

そんな人を一人、ご紹介しましょう。

リディアさん、私の友人です。彼女はボー州(ジュネーブの隣の州 )の生まれで、スイス国籍を生まれたときから持っています。

母方の祖父母は、旧ユーゴスラビアから、戦争の難を逃れ、子どもを連れてスイスに移住。遠い親戚を頼ってベルン(ドイツ語圏スイス)まで来て、そこに定住したそうです。

その娘である母は、スイス人との結婚をきっかけにフランス語圏スイスに移住。その時にリディアさんは生まれました。

リディアさんの母親はユーゴスラビア人ですが、リディアさんは、フランス語しか知りません。なぜなら、母親は家では決してユーゴスラビアの言葉を子どもたちに話さなかったからです。当時のスイスでは、ユーゴスラビアは共産圏と見なされていました。彼女は何度も肩身の狭い思いをしたのでしょうか。自分たちが安全にスイスで暮らすためには、スイスに同化することです。だから、彼女は子どもたちにスイスの言葉だけで教育しました。

そしてまた、リディアさんの母親自身も、必死でスイスの言葉である独仏語を学んだそうです。「母は今でもユーゴスラビアなまりのあるフランス語を話すのよ」と、リディアさんは語ってくれました。

こうして、リディアさんは、ユーゴスラビア人を母にもちながらも、スイス人として育ちました。

ところが意外なことに、彼女の夫はユーゴスラビア人だそうです。リディアさん自身は、ユーゴスラビアとは、文化的にも地理的にも切り離されて育ったというのに。そうなった彼女の内心は私には、とうてい推し量れません。それでも、彼女のように公式に、スイス人としてジュネーブに暮らす人々の中には、程度の違いはあっても、スイスの他にも、他の土地の文化や、血縁を持つ人は、決して少なくないのだろうと想像を馳せます。

「あなたは何人」と、単純に言えない人々が大勢いるという現実に、ジュネーブではあちこちでぶつかります。リディアさんの他にも、いろいろな事情から、自身の育って来た過程に、いくつもの国、いくつもの言語が交錯している人々が、大勢います。そういう人が大勢いるのがジュネーブであり、スイスという国なのです。

そういう人々は、育つ過程で多かれ少なかれ、国際感覚をごく自然に身につけています。ジュネーブは、そういう人々の大勢住む、筋金入りの国際社会といえます。

このような人々は、国連を中心とする国際社会とはやや違う場所にいます。多言語、他人種からなるジュネーブ、スイスの社会を理解しようとするとき、こういう人々が「スイス人」として大勢暮らしていることもまた知っておかなければならないと思うのです。

掲載: ITU ジャーナル Vol. 43, No. 8, 2013年8月号

ジュネーブと国際会議と(4)国際会議のお手本——先輩の方々

私がITUの会議に出席し始めた頃、日本代表団としてご一緒させていただいた先輩方からは、数え切れないほど多くのことを教えて頂きました。その方々はきっと、私に何かを教えようとは意識していらっしゃらなかったと思います。けれども、国際会議1年生の私にとっては、先輩の皆さまにとって当たり前のこと一つ一つが、すべて勉強でした。

K社のOさんは、当時既にCCITT(現ITU-T)SGII副議長の要職に就いておられました。会期も大詰めに近づくと、分科会で出された結論を持ち寄ってSGII全体で討議する、大きな会合が始まります。その会議で、Oさんは議長団の一人として、いつも壇上の席におられました。私が遠くから拝見すると、長身で細身でいらしたOさんは、いつも口元に穏やかな微笑みを浮かべておられました。

それだけでも大変なことなのに、どうでしょう!Oさんが、言葉を選んで、静かに、ご発言を始められると、大勢の参加者がシンとして耳を傾けるのです。今まで、お互いに強い言葉で、激しい議論をしていた人たちが。

Oさんは、柔らかいお声で、ゆっくりとお話しされます。英語はお上手でしたが、立て板に水のような話し方ではありません。そのOさんの言葉を一言も聞き漏らすまいとするかのように、会議場にいる人々が、 一心に耳をそばだてています。

それを目の当たりにして、話す内容に実があれば、人は一生懸命に聴くのだとわかりました。英語のうまい下手、声の大小ではないのです。Oさんのそういうお姿に、国際会議1年生大いに励まされました。

ITUに限らず、多くの国際会議は英語で進められます。英語が自分の言葉である人たちが会議に馴染みやすいのは自然なことです。同時に、発言や提出文書の論理の組み立て方も、どこか英語文化の影響を受けてしまうものです。

けれども、国際会議は長丁場です。焦らなくて良いのです。会議は、時間をかけて議論し、相手の発言に耳を傾け、必要なら根回しをするプロセスでもあります。Oさんのように、ご自分のお考えをゆっくり話す方が、英語が母国語ではない大多数の会議参加者にとっては、発言が分かり易くて良いのです。発言内容を理解されるということは、国際会議では大きな強みです。発言の内容自体が参加者の役に立つものであることは、言うまでもありませんが。

もうお一人、Oさんと同じK社のTさんにも、そのお仕事ぶりに多くを勉強させていただきました。

Tさんは、私が出席していた研究会期に、クレジットカード通話利用手順の標準化をテーマにする、ワーキングパーティー(WP)の議長を務めておられました。私も会期の初めからこのWPに参加して、勧告案(ドラフト)作成作業を経験しました。

当時のCCITTでは、各研究会期の初めに、勧告案作成のために課題別のWPが作られました。つまり、WPの仕事が、同じ時に一斉にスタートするのです。

ところが、会期を重ねるにつれ、各WPの進捗状態に差が出てきます。競争するわけではありませんが、勧告作成の進み方の速いWPと遅いWPが出来てくる。

その中で、Tさんの議長を務められたWPは、一番進捗の速いことが誰の目にも明らかになってきました。

Tさんは、WPメンバーの誰よりも沢山仕事をされるのです。Tさんはいつもドラフトを用意して会議に臨んでおられました。勧告書の作成ですから、その文案は一語一語慎重に検討されます。その議事を捌き、修正案を提案するのは彼。修正が合意されると、その文案を盛り込んだ、第x版勧告書案を作成するのも彼。WPの進捗状況報告を書いて、SGII議長に提出するのも彼。

そういうTさんの、お仕事ぶりを終始拝見し、建設的な意見を提案する人間が、結局は会議を引っ張っていくことがよくわかりました。新しい勧告を作るという、いわば無から有を作る任務を負った会議の場合、その議長の仕事は、次々に具体案を提案していかなければならないのだと思いました。

私はたまたま他のWPメンバーでもありましたが、その議長はTさんのような仕事の仕方をしていませんでした。彼は、「WPメンバーが、勧告案を提案してくれない」とぼやいていましたけれど、勧告案作成は全く前に進みませんでした。

その他にも、国際会議のお手本を見せてくれた先輩方は、大勢おられました。

私が参加するまで、日本代表団のたった一人の女性メンバーだったNさん。緊張してカチコチになっていた私には、誰とものびのびお話しをされるNさんのお姿が、お手本となりました。

K社研究所でISDNを担当しておられた、闊達なIさん、SGIII(国際電信電話料金)で、議長として素晴らしいバランス感覚を発揮され、ともすれば縺れがちになる議論を見事に捌いておられたMさん、国際電話料金の専門家として当時から重みのあったSさんなども、皆、尊敬する、国際会議の大先輩でした。

掲載: ITU ジャーナル Vol. 44, No. 7, 2013年7月号