最初の国際交渉 2 — 国際交渉の現場から (8)

前回述べたように、私にとって最初の国際業務は、1985年、国際電気通信連合(International Telecommunications Union,ITU)の標準化会合への出席でした私の担当したのは、現在の組織で言うITU-T、当時の名称CCITT(Comité Consultatif International Téléphonique et Télégraphique)、に属する標準化項目でした( http://en.wikipedia.org/wiki/ITU-T)。CCITTには13のStudy Group (SG)がありましたが、私は利用者に関連の深い課題を扱うSG2を担当しました。

“E116勧告、クレジットカード通話手順”は、私が勧告作成に参加した最初の課題です。KDD(当時)の谷正喜(たに まさき)さんが、ラポーター(課題検討グループの議長はこう呼ばれました)を務めておられました。谷さんからも、多くを学びましたが、それは後述します。

E116勧告の目的は、発信者がクレジット通話サービス(通話料金を発信者でも、受信者でもない、第三者に課金する通話サービス)を利用する際の、手順の標準化でした。ここでいう手順は、通話者(人)の手順を指します。

私は、全くの素人だったので、課題検討グループに参加するかたわら、クレジット通話の技術、課金方法などテクニカルな事項をせっせと勉強しました。そのために、NTTの通信研究所にいた同僚に資料を送って頂きました。ところが、私は業務系の人間なので、技術には明るくありません。研究所の作成する書類を読み解くのは骨が折れました。それでも門外漢ながらも、クレジット通話サービスには多くの決まり事があって初めて成り立っていることだけは、わかりました。

また、どんなサービスにも専門分野があること、特定サービスの専門家ではない私が、標準化会議に出席して、どのような役割を果たせば、会議全体にも、また私を送り出したNTTにも役立つのだろうか、という問題意識を持ち始めたのも、クレジット通話サービス標準化にガップリと取り組んだおかげでした。

クレジット通話サービスは、当時は「クレジットカード電話 」と簡略に呼ばれることもよくありました。買い物に使う、VISAカードのようなクレジットカードを使って支払いのできる通話、と誤解されたことは頻繁でした。私は、これだけはにわか勉強をしたおかげで、このサービスの要は、カード自体ではなく、クレジット通話サービスを利用するための番号だということに気がつきましたが、その当時は、電話とクレジットカードを結びつけるかのような呼称が新鮮に思われて、こんな誤解を生んだのかも知れません。

この記事は、NPO国際人材創出支援センター(ICB) ウェブサイトに連載されています。

広告

最初の国際交渉ー国際交渉の現場から(7)

最初の国際交渉  世界電気通信連合(ITU), 1985

ITUのCCITT (当時, 現在のITU-T)標準化会議へ

ドキドキしながら迎えた、初めての外国出張。世界電気通信連合(ITU、ジュネーブ)の第二研究会(Study Group II, 略称SGII)に、日本代表団の一員として参加したのです。1985年、ジュネーブ周辺の山に、まだ雪の残る季節でした。

当時、成田からヨーロッパに行く便は、アエロフロート(ロシアの航空会社)以外は、アラスカのアンカレジ経由か、もっと長い南回りでした。私はパリが好きだったので、パリ経由で行きました。成田-パリ間が17時間、そこで乗り換えてジュネーブまで更に1時間。長い空の旅、狭くて身動きのままならないエコノミークラスの座席の中で、好奇心の強い私もさすがに飽き飽きしたことを覚えています。

いよいよ飛行機が機首を下に向けジュネーブ着陸の体制に入ったときのこと、サレーブ山(ジュネーブの南方に聳える山。標高1300メートルぐらい。)の山肌の縞模様が、窓一杯に見えました。変わった模様の山だなあと思いました。今でも、ジュネーブに着陸直前の飛行機から、サレーブ山の縞模様を見るたびに、初めてここに来たときの感動を思い出します。

初めて降り立ったジュネーブ空港。今は使われていない旧ターミナルにまずは入り通関。この建物は平屋建てでこじんまりしています。なあんだ、小松空港(石川県)ぐらいじゃないの、と思わず拍子抜けしてしまいました。今のジュネーブ空港からは考えられません。また、小松空港の方も 今では立派で広いターミナルになっています。

空港には、NTTジュネーブ事務所次長の岡本さんが、出迎えに来て下さっていました。当時はNTTの出先機関があったのです。ジュネーブに女子社員の出張者を迎えるのは初めてなので、次長職の岡本さんがわざわざ来て下さったのでした。岡本さんは、いつも優しい微笑みを絶やさない方ですが、それは今に至るまで、ちっとも変わっておられません。

会議が始まるのが月曜日だったので、到着したのは週末だったと思います。なぜなら、翌日に、ジュネーブ事務所の佐久間さんが、ご家族と一緒にスキーに連れて行って下さったことを覚えているからです。日帰りでスキー、それも朝はゆっくり出て、日中の天気の良い、快適な時間にだけ滑り、お昼ご飯もゆっくり食べて、4時前には帰路に就く。東京から金曜日の夜行で行くスキーしか知らなかった私には、驚くことばかりでした。そんな環境を当たり前のように、スイスイ暮らされる佐久間さんや岡本さんが、別世界の人に見えました。

月曜日から始まった会議。わあああああ!大感激。

会場はジュネーブ国際会議場(CICG)でした。大量に配られる書類、それを配布するための、「ピジョン・ホール(鳩の出入りする穴)」と呼ばれる郵便受け(のようなもの)に感心したり。ピジョン・ホールが、個人個人に割り当てられるので、嬉しかった事を覚えています。一人前に扱われたような気がしました。

会議では、日本代表団として参加されていた多くの立派な先輩方に恵まれました。日本代表団は、KDD(当時)、通信機械工業会、NTTの人々から成っていましたが、そこには会社の壁などありませんでした。日本を遠く離れて仕事をするので、かえって日本代表団として助け合えたのでしょう。

この経験は、後に私の国際会議人生のいしづえともなる、貴重な財産になりました。

KDD(当時)の太田亨さんは、SGII副議長の要職に就かれておられました。太田さんが、議長団の座る壇上から、静かに言葉を選んで話し始められると、大勢の参加者がシンとして耳を傾けます。今まで、お互いに強い主張をしていた人たちが。それを目の当たりにした時、話す内容に実があれば、人は一生懸命に聴くのだとわかりました。

私が参加するまでは、たった一人の女性メンバーだった玉井信子さんも、ITUの会議のベテランでした。緊張してカチコチになっていた私には、誰とものびのびお話しをされる玉井さんのお姿が、お手本となりました。

KDD研究所でISDNを担当しておられた、闊達な池田佳和さん、SGIII(国際電信電話料金)で、議長として素晴らしいバランス感覚を発揮され、ともすれば縺れがちになる議論を見事に捌いておられた松平恒久さん、国際電話料金の専門家として当時から重みのあった田中三郎さんなども、ITU会議への参加を通じてお知り合いになりました。皆、国際会議参加者として 私のお手本になった方たちです。

また、皆さんが、KDD(当時)の方たちだったのは、偶然ではないと思います。国際専門キャリアとしての会社の歴史があり、そういう中で人材も育っていたのだと思います。

国際会議参加者には、発展三段階説があるといいます。

第一段階は、必死で議論についていくだけで精一杯の時期。第二段階になると、自分の意見を言えるようになる。更に会議に慣れると、自分の意見だけでなく、会議の進行全体に貢献するような発言ができるようになる。これが第三段階、と。

私自身の経験に照らしても、全くその通りだと思います。私も、会議に慣れるにつれ、少しづつ発言できるようになっていきました。初めは、課題別専門家会合(ワーキンググループ)のような、小規模の会議で、それから、三桁の人数が集まる全体会合で、というように。

また、一つ発言するにも、初めは十分に内容を考えて、手元に英語のメモを作って、と、いろいろ準備をしてから手を挙げました。後に慣れてくると、準備がだんだん簡単になり、臨機応変に近づいていきました。英語で話すことに抵抗がなかったためもあり、第二段階までは3回目の会議ぐらいで行き着いたと思います。

第三段階まで行くには、少し飛躍する必要がありました。会議の進行に貢献する、議事が円滑に進むような提案ができるためには、高い目線を持っていなければならないし、また、その会議にも慣れている必要があるからです。議論の内容の理解はもちろん重要ですが、会議のプロトコルといいましょうか、会議に特有の手順もある程度分かっていないと、なかなかこういう発言はできないものです。

それでも、国際会議もまた、習うより慣れよ、だとも思います。いろいろな場所で経験を積むにつれ、発言内容の多様なニュアンスが使い分けられるようになってくるものです。そのためにも、同じ会議に参加する他の人々と、休憩時間などを利用して、他愛ない話であれ何であれ、話しをして、互いに知り合っておくことは、自分の心の緊張を和らげるために、大変役に立つと思います。

この記事は、NPO国際人材創出支援センター(ICB) ウェブサイトに連載されています。

SNS時代のイノベーション? ー 欧州ICT社会読み説き術 (10)

フェースブック、ツイッターなどの、ソーシャルネットワーキングシステム(SNS)の利用者が、爆発的に増えている。私も遅ればせながら、2011年3月11日の東日本大震災を機に、ツイッターの効用に開眼。それ以来、ツイッターを通じて色々な人々と緩い繋がり(らしきもの)ができてきて、時々情報や意見を交換するようになった。

SNSの強みの一つは、人の繋がりの連鎖を速く、広く可能にし、自分が思いもかけなかったことを発見できることだと思う。私たち一人一人は、必ず何かを持っている。例えば、友人・知人という人脈、何かに対する意見、知識、経験など。それは資源(リソース)である。大勢の人が、ひとりひとり、そういうリソースを出し合うと、1+1を2以上の価値にすることができる。丁度ブレーンストーミングで、新たなアイデアを生み出すように。SNSはブレーンストーミングではないが、両者は、多数の人がリソースを出し合い、新しいアイデアを生み出す可能性のある仕組みという点で、似ている。

スマホが人の行く先を予告?

そんなことを考えていた折、「人の次の行く先を予告するスマホ」が開発されたというニュースが目に飛び込んできた。生み出したのは、ローザンヌ工科大学(スイス)の3人の研究グループである。それは、モバイル データ チャレンジ(Mobile Data Challenge, MDC)という研究開発のコンテストをきっかけに誕生した。

人がこのシステムを搭載したスマホを持つと、その人が次にどこに行くか、高精度で予告できるという。いろいろな目的に役立ちそうである。

広く世界にアイデアを募るノキア

そのアイデアを生み出したMDCという仕組みは、大変興味深い。MDCは、携帯電話機製造メーカとして有名なノキア社(本社ヘルシンキ、フィンランド)の、ローザンヌにある研究センター(Nokia Research Center, NRC)と、イダップ(Idap)という、人間とメディアのコンピュータ解析を専門にする研究機関(スイス)が主催している。

MDC の目的は、スマホに搭載された技術を使い、モバイル通信を人と社会に一層役立たせるシステムを生み出すことだ。ご存知の読者も多いと思うが、スマホには、全地球測位システム( Global Positioning System, GPS) ブルートゥース, 加速度センサ(accelerometer), マイクロフォンやカメラ などが組み込まれている。それらを縦横に使いこなして人の行動への理解を深める。その知識をもと人類共通の財産になるようなシステムを生みだそうという、壮大な夢のあるプログラムだ。

MDC はノキア社の R&Dの仕組みの一つである。同社は、「オープン イノベーション ネットワーク」という思想の元に、世界12箇所にNRCを置いている。 設置場所は、スイスを含む欧米先進国のほか、中国(二箇所)、インド、ケニヤなど、経済発展の目覚しい地域にもある。スタッフは500人。(出典:NRCウェブサイト)

ノキアのR&Dシステム

NRCは、ノキア社のR&Dの推進機関である。各NRCは、所在する国の理工科系学部を持つ大学と密接に提携し、R&Dを進めている。例えばスイスでは、NRCはローザンヌとチューリヒの工科大学と合同で研究開発を行なっている。つまり、オープン イノベーション ネットワークとは、ノキア社と研究機関(大学)との間でリソースを相互利用し、そこから相乗効果を生み出すしくみといえる。ノキア社が、テーマと、資金、必要な実験フィールドを提供するというのだ、これは、世界各地の若い研究者に強い動機を与えるだろう。ノキア社はこのような仕組みを通じ、次々にイノベーションを起こし、それを通じて科学の進歩、モバイル利用者の便宜に貢献し、ひいては会社の利益ともなることを目指しているかのようだ。

このような、広くアイデアとスキルを募る仕組みは、ノキア社のアプリケーション開発にも見られる。同社は「ノキア デベロッパー」という仕組みを提供している。それを通じてノキア社技術陣は、世界中のデベロッパーをサポートし、多様なアプリケーションの誕生を助けている。

ノキアの社風

なぜノキア社は、このような、仕組みを確立させたのだろうか?フィンランドは、教育程度も高く人的資源はあるものの、人口が少なく(約530万人)、国土の大半は寒冷気候に覆われている。天然資源にも恵まれていない。そういう国で成長した企業だからこそ、R&Dでも、自国に閉じず、国外に広く人材やアイデアを求め、協力し合うという考え方が身についているのではないだろうか。

また、ノキア社には、社会貢献の伝統がある。ノキア社が創業された時代には、若い人々に奨学金を出していたと聞く。

こういった仕組みから誕生したシステムやアプリケーションが、ビジネスですぐに収入になるかどうかは、別の問題かも知れない。そこから利益を上げるためには、アイデアだけでなく、コストや販売チャネルなど、他の多くの要素を考慮に入れなければならないからだ。

けれども、長い目で見ると、このようなR&Dの仕組みは、人類に貢献するのではないだろうか。R&D参加の門戸を広く開け、知恵とアイデアを大勢から集めるという目標を与えることにより、人材を育てているからだ。それはまた、りっぱな企業の社会貢献となっている。

筆者は、欧州の経済紙に、ノキア社の経営状態を懸念する論調が時折報道されていることも知っている。

が、どうしてどうして。この開けた態度は、組織の強さを示しているのではないだろうか。自分とは異質なものを取り入れる、それを受け入れて自らを変化させていくちから、それは時代の変化を生き抜く強さだ。

掲載: NTTユニオン機関誌「あけぼの」2012年10月号

掲載原稿はこちら。

再び見る日本ー国際交渉の現場から(6)

再び見る日本は、変わったのか変わらないのか? ー 1984年夏から1985年

1984年夏に帰国、NTT(当時、日本電信電話公社)に戻りました。

当時は、電電公社民営化の真っ最中。民営化を進めるためには、厖大な仕事があります。そういう仕事に携わるわたしの同期生や、年の近い先輩方が、生き生きと忙しそうにしておられる姿が新鮮でした。この会社も、新しく生まれ変わるかもしれない、そう思うと、わくわくしました。新しい丸いブルーのロゴが、NTTというアルファベットで書かれた社名と共に、軽やかに見えました。

わたしはといえば、無任所の社内浪人みたいな身分でした。同じ頃、会社派遣の留学生としてアメリカに行っていた人々も、戻ってきました。彼らも無任所でしたが、 秘書課第三人事係に籍を置き、おりしも始まった会社訪問の学生の応対に就いていました。わたしは、会社から見れば非正規留学の人間でしたが、正規留学の男性社員と同様に、会社訪問の女子学生の面接を行ないました。今から思うと、わたしのような前例の無いルートで私費留学した社員を処遇するルートもなく、また、時代が少し変わって、女子学生の会社訪問を受け付けるようになっていたためでもあるでしょう。

その頃はまだ、民間企業では、男性が仕事の主役、女性はその補助業務に就く、という処遇が大半でした。大卒女子を会社の戦力として採用する、という考えは、一部の人に芽生えはじめていましたけれども、実例は本当に乏しかったのです。キャリアウーマンという言葉が流行ったのもその頃でしたが、イメージが先行していました。

それを物語るこんな経験があります。

ある日、会社訪問に来た女子学生が、こんなことを尋ねました。
「くりさきさんも、男性と同じように残業するのですか?」

(え!?)

「はい、残業します。でもそれは、自分の仕事があるからです。男性が残業するから(私も残業する)ではありませんよ。」

彼女は、女性も残業することが、仕事に男女の違いのないことだと思っていたのかも知れません。

そうこうするうちに、営業局市場開発室から声がかかり、わたしは、新技術を商品化する仕事を担当することになりました。留学前に同じ市場開発室で、市場調査を担当していたことが、このご縁に繋がったのだと思います。新しいサービスを生み出すという仕事の性質からでしょうか、市場開発室には、 新しいもの、新しい考え方を積極的に取り入れる気風がありました。

今から思うと、わたしの任用は 中野景夫市場開発室調査役の抜擢でした。同期の人々が、本社の係長になるところを、わたしは、部下こそいませんが、管理職のポストに就いたのです。それは、留学したおかげでした。当時、市場開発室は、ジュネーブの世界電気通信連合(ITU)で行われる標準化会議に、NTTを代表して事務系社員を送り出していました。中野さんは、カナダ留学から帰ってきたわたしに、その任を担当させてくださったのでした。

わたしが管理職になったのは、NTTの内規のためでした。当時は、外国出張に行けるのは、管理職以上と決まっていたそうです。ところが、わたしはまだ管理職の年次に達していません。そこで、中野さんは、管理職の中でも一番下のランクのポストを市場開発室に作り、人事課の承諾を取り付けたのだそうです。それは係長と同レベルの管理職でした。

私は、その頃は、ジュネーブという名前だけしか知りませんでした。どんなところだろう?——ワクワクしながら、ITU に行く日を待ちました。後年、自分がそのジュネーブに住むことになろうとは、夢にも思いませんでした。

わたしのジュネーブへの出張は、NTT史上二番目の、女性社員による海外出張となりました。フルブライト奨学金を得てアメリカに留学され、その後も、NTT社内で電話交換手の待遇改善などに尽くされた景山裕子さん(かげやま ひろこ、故人)以来、30年ぶりだそうです。まだ、「女性で初の課長」「女性で初の電話局長」など、“女性で初”が目新しかった時代でした。今では、さしもの日本でも、大臣が女性であるというだけではニュースになりません。社会の変化の速さに驚きます。

次回は、 場所は世界電気通信連合(ITU)での、国際交渉の最初の体験について、書こうと思います。

この記事は、NPO国際人材創出支援センター(ICB) ウェブサイトに連載されています。

ネットが繋がるのは奇跡! — 欧州ICT社会読み説き術 (9)

ある火曜日の夜、突然に

きょうも何事もなくネットが繋がり、私はメールやウェブを見ている。この当たり前のことは、実は奇跡だと、最近気がついた。

ある火曜日の晩、自宅のネットが繋がらなくなった。朝は何でもなかったのに。モデムの配線をつなぎ替えたり、電源を入れ直してみたりして、自分の分かることを試した。結果は同じ。

まあいいさ、静かな時をもてるわと、一度は喜んでみた。おりしも北国の初夏。外では早朝、深夜に小鳥が美しい声でさえずっている。家にいるときぐらいは、キーボードから頭を上げ、自然の恵みに耳を傾けようではないか。

だが実際には、わたしの暮らしぶりがどんなにネット漬けか、良くわかる結果となってしまった。

我が家からネットが無くなり、メールの送受信はもちろん、音楽や日本や世界のニュースをポッドキャスティングで聴く、ブログを書く、フェイスブックやツイッターを覗いて、友人の消息や、世の空気を知る・・みんなフイと消えた。不便だ。ストレスは高まるばかり。

ヘルプデスクに助けを求めたが

翌朝、私の使うISP,グリーン社のヘルプデスクに電話した。

グ社のデスク氏「当社のシステムは正常です。おかしいな、、わかった、あなたのモデムが動いてないと、当方のスクリーンに出ています。」

え、わたしのせい?モデムは2-3年前に替えたばかりだというのに。そりゃ、早すぎないかい?

デスク氏「2-3年?古いですね。とにかく、当社の原因ではありません。回線を提供するスイスコム(スイス最大の電話会社。日本のNTT東、西に当たる)にそっちの原因を調べて貰うか、あなたのモデムを取り替えて下さい。」

またこれだ、“自分のせいじゃない”。こうして原因先送りの堂々巡りの始まり始まり。この件も迷宮入りか、、と気が重くなったとき、思いがけない言葉を聞いた。

デスク氏「あ、いけない。きのう、当方がVDSLに変えたんだった!あなたのモデムは、ADSL専用ではないですか?」

冗談じゃないよ!わたしはVDSLに変えてなんて、頼んでない。

わたしには高速モデムよりも、常に動くサービスが必要なんだ!

そういえば3週間前、突然仰々しいモデムがグ社から届いた。頼みもしないのにヘンだと思い、グ社に電話して訳を聞いた。ただ繋げばいいだけです、とヘルプデスクのお兄さんは答えた。ただし一週間以内につなぎかえを終わらせてください、と。

だけど、その時彼は、グ社がもうすぐVDSLに替えるだなんて、一言も警告しなかったぞ。

実際、その時わたしは新しいモデムに繋ぎ換えを試みた。うまくいかない。止めた。古くていいから、今ある安定したモデムがいい。

ところが、グ社の方でVDSLに変更してしまったとわかった今、私が自力でモデムを替えるほかない。ネット断絶状態も我慢の限界に来ていた。金曜夜、遅く帰宅したにもかかわらず、再びモデム接続を試みる。

判りにくい説明書を見ながら、1時間。ついに接続成功。一気にストレスがすとんと落ちた。その爽快さ。我ながら、自分のストレスがここまで大きかったことに驚いた。

さて、その原因は、、

このVDSLへの変更の件は、誰からも何の事前連絡もない、青天の霹靂だったので、後日その理由を改めて調べて見た。

すると遠因は、スイス連邦政府の加入者回線高速化政策にあるとわかった。スイス政府は加入者線の光ファイバー化(FTTH, Fiber to the home)を2008年以来進めてきた。その際、スイスコムなどの通信設備保有者や、ISPなどのサービスプロバイダとの競争が公正に行われるよう、連邦通信委員会(The Federal Communications Commission, ComCom)が主導して通信企業を集めて協議会(Round Table on fibre networks)を発足させて、回線へのアクセス条件、技術標準など、細かいルール作りを行なってきた。

その一連のルール作りと、現実の設備変更が進行した結果、我が家にタダでVDSLモデムが配られ、わたしがうかうかしているうちにネット接続回線はADSLからVDSLに変わり、それを知らなかった私には、ネット断絶が起きたのである。

ICT大衆化時代のチャレンジ

今回のささやかな経験から、ICT大衆化時代の課題が幾つか浮かび上がるように思う。

まず、ICT提供者(事業者、政策担当者)と利用者との間に意識のずれがあること。利用者にとり、ネットは 暮らしのインフラなのだから安定供給が第一。他方、ICT提供者は、回線速度が最も重要と考える。利用者にとっては、安定・安心あっての速度である。サポートどころか予告もなく、頼みとするISPにADSLからVDSLに変えられて、ネット断絶となり、あわてるのは利用者だ。

二番目は、ネット社会の利用者サポート。ネットが暮らしのインフラになり、だれでもがネットを使うようになると、それに比例してサポートは手薄になる。そういう社会では、街のICTヘルプの必要性が増しているのではないだろうか。ICTの使い方を知っていても、その仕組みにも機器にも明るくない個人利用者は大勢いると思う。そういう人々を対象にした、個人利用者向けICTヘルプサービスへのニーズは、大きいと思われる。

ICT大衆化時代のヘルプはかゆいところに手が届かなければならない。現在のような、現場に行かない、電話とメールだけを使ったヘルプデスクサービスにはどうしても限界がある。大変お恥ずかしいことだが、私の場合、つなげばいいだけ、と電話でいわれたモデムを、一回でちゃんとつなげなかった。後から判ったことだが、原因は、私のモデムの回線分岐器具が、説明書にある図解とは違う位置にあったためだった。そして私には、それを一目で見抜けなかった。

理屈では単純なことでも、個々の現場を見なければ判らないことは、ICT環境にもたくさんある。技術には強くても、現場を知らない人々が、電話でアドバイスをするだけの体制では、時には、利用者はお手上げになってしまうことがあるのだ。

ネットの故障には必ず原因がある。他方、ネット接続には、設備提供者、サービス提供者、機器製造メーカが介在する。そのため、ネットに故障があった場合、誰にも簡単には原因が判らない。利用者は、ネット接続に関わるいくつもの事業者の間を綱渡りして歩いているようなものだ。そんな状態でありながら、日々ネットが繋がるのは奇跡である。

ICT大衆化時代を迎え、私のようなネット漬けの生活を送る人は大勢いると思う。そういう社会で、個人利用者向けICTヘルプサービスは、大きなビジネスチャンスとなったのではないだろうか。だれかこのビジネスで、大成功して見せてくれないかな。

掲載: NTTユニオン機関誌「あけぼの」2012年7-8月号

誰でもアクセスできるウェブ — 欧州ICT社会読み説き術 (8)

情報化社会のCSR

情報化社会が成熟すると、それに呼応して企業には新たな社会的責任 (CSR, Corporate Social Responsibility) が生まれる。その一つが、企業のウェブサイトを誰にでもアクセスしやすく、情報の探しやすいものに作ること、つまり「ウェブ アクセシビリティー」の向上である。

ウェブサイトは情報化社会に不可欠なインフラといえる。だからウェブサイトの主要な製作者である企業には、誰にでも使いやすいサイトを作る責任がある。それは、ある企業が自社のお客様だ、と考える人々(例えばパソコンを買いたい人)だけでなく、ウェブを使う人誰でもに対する責任である。そこには当然、従来どちらかというとウェブになじみの薄かった人々、身体障がい者や、例えば高齢の利用者も視野に入れなければならない。

個々の企業が、自社のウェブサイトを誰にでもアクセスし易いものにすれば、世の中の情報インフラの質は、飛躍的に向上する。これは丁度、地球温暖化の進行を食い止めるために、個々の企業が二酸化炭素排出量を自主的に削減することと似ている。企業が、地球の環境に責任を負うように、情報環境の向上に貢献することが情報化社会のCSRである。

ウェブ アクセシビリティー(WA)

ウェブ アクセシビリティーは、概念であるだけでなく、具体的な標準(つまり、広く合意された決めごと)を伴う技術である。その標準は従来、ウェブ アクセシビリティーに関心のある人々が集まって自主的に作成した事から始まった(Web Accessibility Initiative, WAI)。それが技術的に優れていること、他に比肩する技術標準が無いことも相俟って、今では、約20カ国で技術標準として採用されるまでに至り、事実上の国際標準となった日本でもJISが主体となって日本に合うように補足された標準が作成されている (JIS X8341)。

スイスのWA

筆者は最近ジュネーブで開かれた、WA セミナーに参加する機会を得て、州政府、ウェブ作成者、推進団体など、実際にスイスでWA推進に携わる人々の生の声を聞いた。

スイスでは、連邦法 (身体障がい者法、2004年成立)により、すべての公共機関は、そのウェブサイトが、WAIの定めたAAレベルを満たすことを義務づけられている。

ここでいう公共機関の範囲は広い。政府機関は、連邦、州、市町村に至るまで、すべてが対象となる他、ラジオ、テレビ局、スイスポスト(郵便と貯金)、スイス国鉄、主な都市の市営交通など公共目的の企業体も同様の義務を負う。

WAの向上は、良いことではあるが、現実問題として、実行に向かって弾みをつけるのが案外難しいことも事実だ。そこで、WAの向上を促すため、スイスでは、政府や、公共企業のウェブサイトの評価を行ない、その結果を公表している。評価を行うのは、「Access for all」(アクセスを誰にでも)という団体である。現在、2011年版の評価測定報告書が公表され、無料で配布されている

この報告書は良くできていて、評価を受けた各機関のサイトの良い点、改善点、参加機関のランキングが図解入りで分かり易くまとめられている。各機関に対する講評も分かり易い。実際には参加機関には、これよりもずっと詳細な評価結果が知らされていることと思うが、私は、この報告書をアクセシビリティー推進の手段として注目したい。このように評価結果が公表されれば、各機関は競争せざるを得なくなるだろう。また、アクセシビリティというまだなじみの薄い概念について、人々の関心を集める効果もある。

ニーズに合わせることこそ重要

Access for allでは盲人がアクセシビリティー測定チームに参加している。その評価方法も興味深い。テストを行なう盲人のコルシウロ氏は、一例として、「僕が盲導犬を飼うには、行政側に対しどのような手続きが必要か?という問いにウェブサイトは答えられるかどうかを見ます」と語った。実際の課題に役立つか、というこのような視線は、アクセシビリティー技術を実際の場で生かすために不可欠である 。

アクセシビリティー向上をと言われ、ともすれば、技術標準どおりやっているから合格、と考えるウェブ製作者もいるかもしれない。しかし、アクセシビリティーの目的は、それを切実に必要とする人がウェブサイトを実際に使って、目的を達することを可能にすることだ 。技術は大切な一歩だが、アクセシビリティーは、最後はその利用者の意見を組み込んで、完成させなければならない。スイスにその体制が出来ていることは、役に立つアクセシビリティーを実現するための地に足の着いた手段として、評価して良い。

ラスト1マイルの利便向上を

「それでも」、とコルシウロ氏は語る。多数の公共機関のウェブ アクセシビリティー向上は徐々に進んでいるが、彼が利用者として見ると、その動きはまだ点の状態だという。

たとえば、ウェブサイトのアクセシビリティー評価は、五つ星で満点のチューリヒ州。毎年の収入申告という複雑な作業も盲人がウェブでできる。ところが、その後がいけない。行政手続きとして、インプットの終わったページをプリントアウトし、サインして、税務署に郵送することになっているのだ。目が不自由な人が、すべて一人で行うには、難しい作業ではないか!

チューリヒ州の名誉のために断っておくが、最後の1マイルの不便は、どの機関、団体にもあるだろう。

ウェブサイトのアクセシビリティー向上は、現代社会の情報環境の大きな前進である。けれども、ウェブサイトの利用は、何かをするための一連の動作線上にある大切な一部だが、それだけで目的を達することは出来ない。ウェブへのアクセシビリティーの向上が、ウェブを含む一つの目的を持った行動のプロセス全体のアクセシビリティー向上に繋がることを期待したい。

掲載: NTTユニオン機関誌「あけぼの」2012年6月号

いつでも?どこでも?だれでも? — 欧州ICT社会読み説き術 (4)

お正月休みを日本で過ごした。1年ぶりの日本である。

私のように、20年以上ヨーロッパで暮らすと、持ち歩くパスポートは日本人であっても、目線はガイコクジン訪問客になる。そういう目でニホンのICTを見ていると、「あれ?」と思うことにぶつかった。

持ち歩くWiFiって便利!

ジュネーブで買ったiPhone。私の契約するキャリアS社の契約更改期まで2年待ってやっと手に入れ、そのスマートさに一晩ではまった。第一、携帯で日本語が使える!欧州に住むと、まず、その便利さが身に沁みる。

出勤途上のトラムなどの隙間時間にWiFiにアクセスして、メールチェック、ファイナンシャルタイムズの日々の記事一覧も見られる。私は、こんな軽くてスマートなキカイが嬉しくて、いろいろ試して楽しんでいた。

お正月帰省が近づくと、今年は何が嬉しいといって、日本にiPhoneを持って行けば、休暇中もメールを見られることだった。今までは一時帰省中はネットとは断絶されていた。親は後期高齢者。家にネットは無い。ジュネーブからラップトップを持参したが、それはオフラインで日々の備忘録に使うだけだった。

今年は違う!iPhoneさえあれば、どこでもネットで繋がれる♪

日本の「公衆無線LAN」て?

ところが、そうは問屋が卸さない、と気づくのに2-3日で充分だった。日本滞在中、いろいろな機会に私のiPhoneをWiFiに繋げるか試してみた。到着した成田空港から始まって、地下鉄駅で、大手情報機器ショップで、立ち寄ったホテルのロビーで。その結果、3週間の滞在中、成功したのは一回だけ。つくばエキスプレス車内とその駅構内だけだった。

初めは戸惑った。私は使い慣れていないので、操作の仕方が悪いためか、電波が弱いためか、原因がよくわからなかった。さすがにここなら、と思って試したKDDI社敷地内の「公衆WiFiボックス」の側でも、ダメ。ドコモ社のWiFiには鍵のマーク。望みをかけたスタバでもダメ。

思いあまって、通りかかったソフトバンクショップで困ったと訴えた。そこでわかった。日本では、「公衆無線LANサービス」「公衆WiFi」と書いてあっても、それがキャリア提供のWiFiの場合は、そのキャリアと契約した顧客でなければ使えないということが。それを知らない私は、ジュネーブでは、街の中心部や空港で自由にアクセスできるので、日本でもそういうものだと思ってしまったのだ。まさにガイコクジン訪問客である。日本の事情を知らないまま、しかし日本語が分かるだけに、「公衆」=「誰でもが使える」と解釈してしまったのだ。

私にも言い分はある。スマホに表示されるWiFiのアイコンに鍵のマークの付いたドコモ社は、これは会員制だなとわかる。けれども、他のキャリア二社のWiFiアイコンには、鍵マークが付いていない。ソフトバンクショップで聞いてみると、鍵の表示はなくても、自社顧客でないと使えない仕組みがあるのだそうだ。そういえば、成田空港もそうだった。空港はキャリアではないが、空港内にWiFi設備があることはアイコン表示でわかった。鍵のマークもない。けれども、私のiPhoneではアクセスできなかったところをみると、ここにも何らかのガードがかかっているのだろう。

日本滞在中、私に気前よくWiFiを提供してくれたのは、つくばエキスプレスだけだった。これこそ公衆サービスではないか。

壁のないWiFiこそモバイル

日本には、「街で使えるWiFi」がきっとたくさんあるのだろう。地下鉄車内で見かけた広告にもあった;「スマートフォンはWiFi使わないともったいないぞ」。けれども、その現実はさほど自由ではない。WiFiの一つ一つはキャリアの壁に囲まれている。日本の中にキャリアの数だけWiFiの島がある。日本に住む人なら、きっとそれで不便はないのだろう。携帯電話を使う以上、どこかのキャリアの顧客なのだから。けれども、どのキャリアの顧客でもない人は、日本中を覆うはずのWiFiの恩恵に、全く与れない。人と通信のグローバル化が日常になった時代に、他国からの訪問客が街でWiFiを駆使できない。東京でさえも。それはマズイのではないか。

キャリアの言い分は分かる。顧客サービス、他社との差別化、セキュリティ保護、など、いろいろな理由があるだろう。それらはすべて、尤もなことである。また、街全体、国全体のWiFiアクセスを保証するのは、一通信キャリアの責任ではないという議論にもうなづける。

けれども、モバイルインフラの整備をキャリア各社の設備投資と市場戦略にのみ委ねていると、こういう矛盾、不便が生じることも事実なのだ。

日本のモバイルインターネットの発展は素晴らしい。だからこそ、日本のモバイル インフラは、WiFiの島の集合ではいけないと思う。現代はそういう時代ではない。

ところが日本中がいつのまにか、そこに住む人だけを向いたインフラで覆われている。「いつでも、どこでも、だれでも」通信できることが、モバイルサービスの理想だったのではないか。

現在のような状態は、「いつでも、どこでも、だれでも」使えるWiFi網になるまでの通過点だと思いたい。今の「公衆」WiFi サービスは、近い将来、キャリアの壁を越えて、真の公衆サービスに発展して欲しいと思う。

掲載: NTTユニオン機関誌「あけぼの」2012年4月号