これは便利!高級時計の情報サイト ー 欧州ICT社会読み説き術 (15)

前回紹介したセルシウス社の、携帯電話機と機械式時計が一体になった製品を、情報化社会へのハードウエアからのアプローチと読み解くとしたら、ウォッチオニスタ・ドット・コム(watchonista.com)社(以下、W社)は、情報からのアプローチを見せてくれた。

W社は時計メーカーではない。情報アグリゲータ(情報集合サイト)として、ブランド、メディア、時計コレクター、時計専門店など、時計を取り巻く様々な集団(コミュニティー)を繋ぎ、そのコミュニティー相互の情報交換の橋渡しをビジネスとする。

W社創設者の二人、フリードマン氏とガベラ氏は、どちらも時計コレクターであり、時計ジャーナリストでもある。常に時計について様々な情報を探し、多様な時計コミュニティーの人々に会っている二人の、「こんなサイトがあればいいなあ」という思いを形にしたという。

高級時計は、ブランドごとにウェブサイトがあるが、今までそれらが一堂に会するウェブサイトは無かった。ブランドをまたがって情報収集するためには、そして時計愛好家はたいていそうしているのだが、個々別々のブランドのサイトを調べるほか無かった。しかし、愛好家やジャーナリストは、ブランドや製品の動きに敏感な人々である。時計に関する最新情報をいち早く知りたい。有識者の意見も知りたい。そういう人々にとっては、数多いブランドを横並びにして一度に見られる情報サイトが待たれていると、二人は考えた。

 Watchnista ポータル

彼らはまた、時計に関する具体的な情報も愛好家に提供したいと思った。

高級時計メーカーのサイトは、消費者にイメージをアピールすることに主眼が置かれたものが多い。グラフィックに凝った美しいサイトが多い反面、メーカーのポリシーや、個々の製品についての具体的な記述が非常に少ない。けれども、ジャーナリストや愛好家にとってはそれでは物足りない。

ブランドなど製造に携わる人々の時計にかけるパッション(情熱)には素晴らしいものがあるのに、ブランドのウェブサイトがそういう作り手の気持ちを充分に伝え切れていないことも、残念に思った。イメージよりも、そういうことを知りたい人々が大勢いることを、彼らは経験から知っていた。

ウォッチオニスタ・ドット・コムは時計メーカーに対しては会員制を取る。メーカーはW社に情報を提供する。こうして、メーカーは、時計専門メディア、高級時計コレクターなど、時計を取り巻く様々な人々とウェブサイトを通じて繋がることが出来る。

メディアと愛好家にとっては、ウォッチオニスタ・ドット・コムは、ワンストップ情報閲覧サイトであり、時計好きが情報交換するブログであり、またオンラインショッピングもできる。

このような、高級機械式時計に特化したウェブサイトが可能になる背景には、スイス時計産業の膨大な厚みがある。スイスには高級時計に専門のジャーナリスト、ライター、写真家が大勢おり、そういった人々が活躍する雑誌が多数あるのだ。そして、購買層として、世界中にコレクターがいる。

二人は起業までに3年かけたという。もともと高級時計についての人脈、知識の豊富な人たちが、それを資源に立ち上げたビジネスだが、それでも、起業までのエネルギーは半端ではないはずだ。何度も試行を繰り返し、失敗から学んできたという。

W社の事業には革命的な意義があると思う。ウェブを活用した横断的情報提供により、時計メーカー相互の情報の壁を越えようとしているからだ。

時計メーカーの哲学、個々の製品のコンセプトや仕様など、具体的な情報を提供すること自体、販売促進をイメージ情報に頼ってきた時計業界の中では斬新な発想である。時計愛好家やメディアは、このサイトから、今まで個々のブランドやメーカーごとのサイトでは得られなかった知識を得ることが出来るようになるだろう。それが、時計愛好家を引きつけ、ひいてはウェブをフォーラムとしたコミュニティーを作り上げていくだろう。

現にW社は、時計愛好者コミュニティーを作るために、フェースブック、ツイッターなどのSNSを活用している。それがまた、ウェブサイトの付加価値を高め、メーカーが情報を提供するメリットを高めることになる。

フリードマン氏は、将来は、このサイトに集まる情報を資源に、時計メーカーにディジタル戦略を提案していきたいと語った。伝統あるスイス時計産業界にあっても、情報の流れの変化が起きつつある。

スイスの時計産業は、機械の精密さを身上とする、いわば究極のハードウェアの世界である。それが、情報技術の大衆化と、インターネットを基盤にした情報流通の爆発的な増大という環境変化の中で、ハードとソフト(情報)との二通りの対応を見せているところが興味深い。

機械時計の心臓である精密な技術は、これからも受け継がれ、磨きをかけられていくことだろう。その過程で、セルシウス社の製品に見られるように、情報を扱うツール(機械)と合体させた製品も、姿を変えて登場するにちがいない。それは、ICT機器を、機械技術のセンスで扱うという方向である。

一方、情報をテコにしたW社のビジネスに見られるように、時計にまつわる情報がメーカーの壁を越えて流布し始めたことは、変化への萌芽として注目に値しよう。ますます便利になるICTに後押しされ、時計に関する多様な情報がそのコミュニティーに集う人々の間を、縦横無尽に行き交うようになる。このような動きは、高級時計メーカーの顧客への情報提供のあり方、ひいては販売戦略に根本的な変化を促すかもしれない。

1970年代のこと、スイスの機械時計産業は、安価なアジア産クオーツ時計に壊滅的な打撃を被った。そこから経営刷新、新たな購買層に向けたスウォッチ(Swatch)のような新製品の開発、機械式高級時計としての付加価値に磨きをかけて、立ち直った歴史がある。

現代の情報化社会の流れの中にあっても、スイスの時計産業界はそれを取り入れ、利用して、変化を遂げていくだろう。

他方、ICT産業界にとっても、スイスの時計産業の行き方に注目すべき点があるのではないだろうか。

それは、基本に忠実、ということである。スマホもタブレットも、日々高機能化し、新たなアプリが開発され、機器のデザインも多様化の一途を辿る。そういう高速の変化があたりまえになっている。技術の恩恵が、幅広い層の人々に行き渡り、利用者にとって便利なものが増えることは、社会にとって良いことだ。けれども、その反面、情報機器を使い捨てにする、または、そうせざるを得ない習慣が、利用者の身につき始めているのも事実ではないだろうか。

数世紀を超えて生き続ける、小さな文字盤の背後に整然と詰まった無数の部品の、芸術品のような姿を目にするとき、1年で古くなるスマホは、モノ作りをする人が使う人に届けるモノとして、それでいいのかと筆者はつい考え込むのだ。

掲載: NTTユニオン機関誌「あけぼの」2013年4月号

掲載原稿はこちら→ 2013_あけぼの_ICT_第十五回

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