再び見る日本ー国際交渉の現場から(6)

再び見る日本は、変わったのか変わらないのか? ー 1984年夏から1985年

1984年夏に帰国、NTT(当時、日本電信電話公社)に戻りました。

当時は、電電公社民営化の真っ最中。民営化を進めるためには、厖大な仕事があります。そういう仕事に携わるわたしの同期生や、年の近い先輩方が、生き生きと忙しそうにしておられる姿が新鮮でした。この会社も、新しく生まれ変わるかもしれない、そう思うと、わくわくしました。新しい丸いブルーのロゴが、NTTというアルファベットで書かれた社名と共に、軽やかに見えました。

わたしはといえば、無任所の社内浪人みたいな身分でした。同じ頃、会社派遣の留学生としてアメリカに行っていた人々も、戻ってきました。彼らも無任所でしたが、 秘書課第三人事係に籍を置き、おりしも始まった会社訪問の学生の応対に就いていました。わたしは、会社から見れば非正規留学の人間でしたが、正規留学の男性社員と同様に、会社訪問の女子学生の面接を行ないました。今から思うと、わたしのような前例の無いルートで私費留学した社員を処遇するルートもなく、また、時代が少し変わって、女子学生の会社訪問を受け付けるようになっていたためでもあるでしょう。

その頃はまだ、民間企業では、男性が仕事の主役、女性はその補助業務に就く、という処遇が大半でした。大卒女子を会社の戦力として採用する、という考えは、一部の人に芽生えはじめていましたけれども、実例は本当に乏しかったのです。キャリアウーマンという言葉が流行ったのもその頃でしたが、イメージが先行していました。

それを物語るこんな経験があります。

ある日、会社訪問に来た女子学生が、こんなことを尋ねました。
「くりさきさんも、男性と同じように残業するのですか?」

(え!?)

「はい、残業します。でもそれは、自分の仕事があるからです。男性が残業するから(私も残業する)ではありませんよ。」

彼女は、女性も残業することが、仕事に男女の違いのないことだと思っていたのかも知れません。

そうこうするうちに、営業局市場開発室から声がかかり、わたしは、新技術を商品化する仕事を担当することになりました。留学前に同じ市場開発室で、市場調査を担当していたことが、このご縁に繋がったのだと思います。新しいサービスを生み出すという仕事の性質からでしょうか、市場開発室には、 新しいもの、新しい考え方を積極的に取り入れる気風がありました。

今から思うと、わたしの任用は 中野景夫市場開発室調査役の抜擢でした。同期の人々が、本社の係長になるところを、わたしは、部下こそいませんが、管理職のポストに就いたのです。それは、留学したおかげでした。当時、市場開発室は、ジュネーブの世界電気通信連合(ITU)で行われる標準化会議に、NTTを代表して事務系社員を送り出していました。中野さんは、カナダ留学から帰ってきたわたしに、その任を担当させてくださったのでした。

わたしが管理職になったのは、NTTの内規のためでした。当時は、外国出張に行けるのは、管理職以上と決まっていたそうです。ところが、わたしはまだ管理職の年次に達していません。そこで、中野さんは、管理職の中でも一番下のランクのポストを市場開発室に作り、人事課の承諾を取り付けたのだそうです。それは係長と同レベルの管理職でした。

私は、その頃は、ジュネーブという名前だけしか知りませんでした。どんなところだろう?——ワクワクしながら、ITU に行く日を待ちました。後年、自分がそのジュネーブに住むことになろうとは、夢にも思いませんでした。

わたしのジュネーブへの出張は、NTT史上二番目の、女性社員による海外出張となりました。フルブライト奨学金を得てアメリカに留学され、その後も、NTT社内で電話交換手の待遇改善などに尽くされた景山裕子さん(かげやま ひろこ、故人)以来、30年ぶりだそうです。まだ、「女性で初の課長」「女性で初の電話局長」など、“女性で初”が目新しかった時代でした。今では、さしもの日本でも、大臣が女性であるというだけではニュースになりません。社会の変化の速さに驚きます。

次回は、 場所は世界電気通信連合(ITU)での、国際交渉の最初の体験について、書こうと思います。

この記事は、NPO国際人材創出支援センター(ICB) ウェブサイトに連載されています。

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